06.21 ドラマ 大いなる朝

TBS 3時間ドラマ ~大いなる朝~

ドイツにて撮影開始 撮影 昭和54年6月21日~27日 放映 昭和54年8月27日   

(ファンクラブ会報「五郎」第27号 昭和54年6月発行より抜粋)

ストーリー
明治37年、日露戦争が始まっていた。山田耕筰は上野を受験し合格した。合格者の中に関西学院で机を並べた徳久がいた。 厳格なウエルクマイステルに反抗する耕筰を理解するのは徳久だった。
ウエルクマイステルは、胸を病む徳久代わりに耕筰にベルリン留学を進めた。だが、パトロンが岩崎小弥太と知り躊躇ったが、徳久の「芸術とは一個人のものじゃない。社会で共有すべきものだ」の言葉に渡欧に傾いた。

明治43年、ドイツに留学した耕筰は、国立音楽院ホホ・シューレに入学した。 音楽芸術分野での留学生は、滝廉太郎に次いで耕筰が2番目だった。
耕筰の下宿先は、ホホ・シューレの教授シュミットの家だった。シュミット家には、美しい姉妹がいた。とくに姉のドロテアは美しい娘だった。

当時のドイツには、武者小路公共、大角岑、重光葵、阿部次郎ら、日本の将来を担う青年が理想を燃えあがらせていた。将来を誓った泰子からの別れの手紙、ロシアの大地のにおいがする娼婦グレーテの自殺は、耕筰を打ちのめした。が、耕筰は 身近かに素晴らしい女性がいたことにようやく気づいた。ドロテアだった。耕筰は新しい愛が生まれるのを感じ、 その思いを交響曲「かちどきと平和」にかけた。完成した「かちどきと平和」は賞賛された。

ある夜、耕筰はミルクの匂いのするドロテアと結ばれた。 耕筰は、シュミット家で行われたパーティーの席上、ドロテアとの結婚を申し出た。大正2年、耕筰27歳の時だった。そのころ、日本では高野五十六が、山本家の家督相続を受けていた。耕筰は「堕ちたる天使」の準備のため、ドロテアとの家と、信頼を残して帰国した。

耕筰は1日でも早いドロテアとの再会を願って上演の準備に奔走した。そんな耕筰の前に現れたのは菊尾だった。菊尾の耕筰に対するあこがれは、恋へと変化していった。

大正3年7月、第一次大戦が始まり日本が参戦した。ドロテアとの婚約も「堕ちたる天使」の上演も無に帰した。耕筰は、大角の勧めで長井郁子と婚約した。しかし成人した菊尾の出現で婚約は破棄された。耕筰と菊尾は青山に ささやかな新所帯を設けた。

大正6年末、耕筰は渡米した。翌年、カーネギーホールの自作自演発表会に成功した。東洋人で初めての快挙だった。耕筰は、昭和8年5月帰国した。耕筰の栄誉に満ちた帰国と対照的に、ひっそりとアメリカに向かう青年士官がいた。 ハーバード大学で留学する山本五十六だった。

大正12年9月1日、東京は大地震に襲われた。関東大震災だ。ハルピンにあった耕筰は、急遽、東京に帰ってきた。 この後、耕筰は逆境の中から、今でも歌い継がれる「からたちの花」「赤とんぼ」「この道」の曲を産み出した。 金の急な入用ができて、料亭に芸奴桃太郎を訪ねた耕筰は、逆立ちで歩く海軍大佐と目があった。 山田耕筰と山本五十六の出逢いであった。

昭和6年9月18日、満州事変が勃発した。昭和14年、山本は海軍次官から連合艦隊司令長官に転出した。
昭和16年12月7日、ハワイ奇襲の南雲艦隊は、ハワイ北方200マイル地点を目指して怒涛の中を突き進んでいった。
昭和20年5月25日、赤坂の山田家は、東京大空襲で耕筰の貴重な楽稿、資料を失った。

昭和20年8月15日、終戦の大詔を耕筰は菊尾と共に聞いた。進駐軍の流すジャズに促され、あらゆる音楽が街にあふれた。 何もかもが、耕筰の回りに甦るようだった。