10.04 ザ・ミュージックマン

初のミュージカル ~ ザ・ミュージックマン ~

1985年(昭和60年)10月4日~10月31日 銀座博品館にて 映画監督斉藤耕一氏演出

ァクラブ会報「Fellow」第70号 ザ・ミュージックマン特集号
昭和60年11月25日発行より抜粋

こんにちは、野口五郎です。
ミュージカルが終ってもう1ヶ月が経ってしまいましたネ。今回の「Fellow」は「ザ・ミュージックマン」特集号と言う事で 皆さんからのお便りを拝見して気がついたのが、裏話をぜひというのが多かったので、順序も何もないけれど思い起こすままにおしゃべりしてみましょう。

★僕にとって斉藤耕一氏、若狭・中西両氏以外は、みんな初対面。
振り付けのシュニー氏、うんと優しいおじさんだった。僕がかつて踊ったことのないのを悟って、実にわかりやすく教えてくれたのです。さて、突然中西談が入ります。

★シュニー氏はいつも私の耳元で「五郎は大丈夫だろうか?」と囁いていた。僕は「心配ない、必ずやるから大丈夫」でも、彼は毎日言う「五郎は大丈夫だろうか?」と。ゲネプロの時シュニー氏の心配をよそに五郎は本番通りにやった。思わずシュニー氏は私の手を取り「出来た!彼は素晴らしい!明日からの本番は何も問題はない」と言った。以上、中西談でした。

★今の中西さんの話を聞いてわかったけど、シュニー氏は前日まで不安だったんだね。ごめんなさいシュニーさん。そんなわけで振り付けも何とか進んで行き、音楽も同時進行。最初に英語のオリジナルを聴いた時、これは大変だと思った。音楽監督の山口さんは、丁寧に解りやすくレッスンしてくれたのです。ありがとうございました。

★突然、おかしかったことを思いだした。まずペチャクチャソング。レッスン始めの頃はみんな、ペチャクチャがうまく言えず(歌えずかな)苦労してました。1回歌い終ると必ずってほど、口や頬を押えてましたけど、本番ではいとも簡単にさらりと歌いこなしていましたね。さすが!!

★次に僕の踊り。街の中で市民と踊る場面(あんた方には悩みの種がある)と、祭りの会場で子供達と踊る場面(76のトロンボーン)があるが、練習場が狭い為、市民は市民、子供達は子供達と場をかえてレッスンしていた。そして僕も一人でレッスン。正直いっていったい自分は何を踊っているのかわからなかった。後半になって市民や子供達と一緒に踊った時にやっとわかり、さすがシュニーさんプロの振り付け師だと思った。

★9月中のリハーサルはまだまだ暑い。何度かサーティワンのアイスクリームを差し入れしてるうちに、僕もすっかり好きになってしまっていた。

★長期公演なのでスタッフ・出演者に病人やケガ人のないように本番前日に神主さんにきてもらって、神棚の前でおはらいをしていただいたんだけど、神主言葉と言うか、公演名を呼び上げる時になったら「ザ・ミュージックマン」がその独特なリズムに合わなくて、みんなで下を向いて吹き出してしまった。その為か、今バラしちゃったけど、楽屋でおたふく風邪が流行ったのです。

★10月31日、照明グループから愛のプレゼントがありました。橋で抱き合う2人のバックに流れ星が 1つスッーと流れていたの、みなさん気づきましたか?

★初日に大変なことがありましたネェ。初日祝いの簡単なパーティーを、本番後ロビーでやってたんです。ビールやウイスキー飲んだりしてるところへ、大きな地震! 本番中だったらどうしてただろね? 取り合えず本番後で良かったと胸をなでおろしましたが、あの大きなシャンデリアの揺れは凄かった!!

★みんなが気になる休憩時間。濃いメイクをしているため、いちいち1回目が終わったからといって落とさない。 だからあまり外には出れない。楽屋訪問してたり、ロビーで体操や発声練習してたりとか、結構、真面目だったんです。 そんな中で男性陣は「オッジ」(地下喫茶店)へ可愛いいウエイトレスがいると言う噂を信じて、 ぬけがけでよく行ってました。特に市長がそうでしたネ。(僕は違いますョ、6回しか行ってません)

★いろんな方面の方が足を運んで下さり、たくさんの方が観て下さいました。ありがとうございました。